COLUMN
心のブラインド
なんだかまるで芥川龍之介が脚本を書いたのかと思うほど、生々しいほどの人間の醜悪さをメディア越しに見ることが多い今日この頃。
長年この仕事を通じて感じて来たことの一角を、全く知らない肩書きだったメンタリストの若者が色んな意味で象徴していたので少しメモします。
私には、その青年は分厚いアクリル板の自家製シェルターの中で中指を立てている少年に見えて興味深いのですが、実は近年あのような自己肯定感の強い人に悩まされて相談に来られるケースが多く、彼らとどう向き合うかということがリーディングのテーマになることが多いのです。
彼らは『事実』を重んじます。
個人の〈真実〉よりも社会の『事実』に重心を置くのは、社会の紛れもない事実に基づく方がハッキリ言ってスピーディーに成功できるからでしょう。
自分を守り固めるために、社会の事実を合理的に肯定していく。成功への欲求が人一倍強い人に多い傾向があるかも知れません。
例えば某氏の発言を一部要約すると、『(私よりも劣る筈の)あなたに何を言われても私の方が優っているという事実は変わらない(納税額に置き換えた反論)』といった自己優位性。例えるなら、この辺りが社会の構造を合理的に自分の味方につけたマウントの典型で、このような言動は社会で(肩書き的に)成功している人が口にしやすいのは昔から変わりませんが、メディア越しで目にすることは滅多にありません。しかも30そこそこの青年の言動などには。
そして厄介なのは、それらの根っこにある脆さと凶暴性、それらは何故か人を惹きつけたり共感性を招きやすいということ。今回の危うさは、どんなに誤りがあったとしても、メンタリストという肩書きは自身を如何様にも肯定する為の隠蓑に出来る。鉄壁のアクリル板越しにボクシングをしている人にすら見えます。
おそらく彼(彼ら)が鍛えて来たのは、そのハートやメンタルではなく、それをガードするアクリル板の分厚さだったのではないかとも思えます。
でも今回の某氏の場合、一歩間違えれば彼に心酔する人々への間接的な影響を考えれば、こんな形ではあっても釘を刺されたのは不幸中の幸いと言えるはず。
差別というものは本当に根深く、その種は幼い頃に植え付けられやすいものです。例えば家庭という他人が知り得ないプライベートな中での何気ない会話などで知らず知らず心の底に沈殿する形で。
ただし少なからず差別感情があるとしても、それをメディアで「好き嫌いレベル」で口にするなど論外ですが、それは『無知』だったからではなく、単純に本質的に他者へのリスペクトが低いからなのでしょう。
それにしても特にコロナ禍五輪を境に、強者の仮面(肩書き)がまるで透明アクリル板化したような、その存在意義を問い掛けているような展開が本当に続きますね。